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FUKUI MUSEUMS [福井ミュージアムズ]

よもやま話Yomoyama talk

庭園が教えてくれる中世のルール

中世において庭園空間は、一定のルールに従ってつくられていたことが洛中洛外図(歴博甲本)の描写から推定されており、隣合わせに描かれている細川管領邸と典厩邸の描写から、庭園の格式の差が見てとれます。当時、将軍の補佐にあたった管領は細川惣領家で、典厩はその庶流という関係にありました。管領邸の庭園には水を湛えた池が描かれている一方、典厩邸の庭園は白砂敷の平庭となっています。公方(将軍)邸にはやはり池が描かれていることから、池庭が上位の庭園と考えられていたことが分かります。

このような庭園の格式の差は、一乗谷においても同様に見られ、当主関連の屋敷・寺院のみが池庭を配することができ、それ以外の屋敷の庭園は全て平庭となっています。朝倉氏のナンバー2と目され、義景の従兄弟である朝倉景鏡の屋敷でさえも、平庭を配しています。また、これまでの発掘調査により、50軒以上の町屋が確認されていますが、庭園は1箇所も見つかっていません。これらのことから、戦国期において庭園を配することは、単にもてなしや遊芸の空間をしつらえるだけではなく、ステータスシンボルとしての一面があったと言えるでしょう。

朝倉館跡庭園周辺図

朝倉氏が育んだ「朝倉文化」の集大成として、将軍足利義昭の御成に合わせてつくられたのが、当主館(朝倉館)に配された4箇所の庭園と建築群です。居館の平地部には山裾を背景に池庭を配し、池庭に張り出すように小座敷と泉殿を建てています。小座敷の縁に出れば、池底に黄色や赤、青色などのカラフルな底石を据えた池庭をのぞむことができます。一方、小座敷の押板を背にすれば、仕切り塀を背景として、緑泥片岩などの京の都の流行の庭石と、一面に敷かれた白砂利の平庭をのぞみながら、茶の湯に親しむ事ができます。足利義昭の御成時の宴会の主な舞台となった「十二間」からは、越前特産の笏谷石でしつらえられた花壇に咲きほこる草花を鑑賞し、宴会の後半には、朝倉氏の家臣が演じた能楽を観ることもできたのでしょう。また、泉殿から階段を昇って朝倉館の東の高台にでれば、戦国武将らしい豪壮な立石で構成された湯殿跡庭園を鑑賞できます。御成時には朝倉館に東楼があったとの記録があり、戦国期に流行した楼閣建築から、湯殿跡庭園や一乗谷の城下を俯瞰していたのかもしれません。

同時期の戦国大名の当主館の大きさに比べると、朝倉館は平坦地として使用できるスペースが決して広くはありません。しかし、谷という限られたスペースの中で庭園と建築を巧みに配し、家屋が軒を連ねる一乗の谷の喧騒の中に、京で流行していた「市中の山居」たる庭園空間が創造されていました。

朝倉氏が依頼し、京中を描かせた一双の屏風は、3代貞景の京の都への意識を物語ることは言うまでもありませんが、その精神が5代義景にも受け紲がれていたことが、発掘庭園にみられる庭園の格式の差や、京と越前の文化を融合させた集大成としての朝倉館の庭園から読み取れるのではないでしょうか。

〈参考文献〉
小野正敏「もう一つの武器、館と庭園」「庭園学講座VI口本庭園と石」京都芸術短期大学/京都造形芸術大学日本庭園研究センター 1999年

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