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FUKUI MUSEUMS [福井ミュージアムズ]

よもやま話Yomoyama talk

福井画人列伝 芳崖門下の学者画家・岡不崩[其の弐]~上京から芳崖入門まで~

岡不崩と宮崎道正

不崩が上京した頃の様子をもう少し詳しくみていこう。まずは上京の年は、資料によって若干のズレはあるものの、東京府庁が授与した明治14(1881)年4月25日付けの褒章状が残されていることから、少なくとも明治12年から13年頃には上京していたと考えられる(注1)。ちなみにこの頃の様子について不崩自身が後年回想しているが、麹町区一番町に一軒家を構えていたらしい(注2)。祖母と幼年の不崩が一軒家を購入したとは考えにくく、二人の上京を助けた永見裕の世話によるものと考えたほうがおそらく自然であろう。

この家の近くには、前出の宮崎道正(1852~1916)が住んでいた。道正は大野藩士石川順次郎の三男として嘉永5(1852)年に大野で生まれ、明治3年に上京して東京大学で学んだ。その後は、札幌農学校、東京職工学校の教壇に立ち、その職を退いたのちは私塾・三楽舎を設立し、多くの地方出身者を指導している。また、杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)と共に雑誌「日本人」や新聞「日本」を発刊し、国粋主義を主張するなど、教育者であり思想家でもあった。不崩との関係は単に同郷というだけではなく、不崩の外祖父内山隆佐の甥で、遠戚の関係にあった、この縁から両親と幼くして死別した不崩を不憫に思い、色々と面倒をみたようである。不崩少年は道正が指導する三楽舎へ週1、2度通い、また不崩が創立に関わった大野出身在京者の親睦会・常磐会を開いた際には、この会の設立に賛同し、援助を惜しまなかった。さらに明治16年頃に道正は小学校読本編纂の計画を立て、不崩に挿絵を担当させている。そして明治27年には、道正より小・中学校の毛筆図画教科書の出版を勧められ、実際に道正自身が発行者となり、敬業社より「小学毛筆図画臨本」を出版している。この二人の交流は道正が亡くなるまで続き、「師弟関係を超越して、伯父甥の間がらのやうであった」(注3)という。大正5(1916)年に亡くなる道正を枕下で看取り、没後は「宮崎道正伝」を自ら編纂し刊行した不崩にとって、道正は早逝した親に代わって人生の指針を与えた恩人であったに違いない。

師・狩野芳崖(かのうほうがい)との出会いと入門まで

狩野芳崖肖像(「芳崖先生遺墨大観」より転載)

明治維新を経て、幕府の庇護を失った狩野派の絵師たちは困窮を極めていた。彼らは新時代の到来とともに文人画や西洋画の人気に圧され、多くの絵師たちは政府関係機関に出仕し、あるいは副業で糊口をしのぐ時代に突入していた。後に「近代日本画の父」とも称される狩野芳崖にしても、郷里山口で養蚕(ようさん)業や文房具屋を営み、必要に応じて輸出用の陶器の下絵や文人画も描いていた。そして不崩が上京した明治10年代半ばは、アーネスト・F・フェノロサの来朝、あるいは明治13年に東京大学を卒業した岡倉覚三(天心)の登場のよって、ようやく近代日本画揺籃期における役者が揃った時期にあたる。不崩が画家を志したのは、そんな時代であった。

さて不崩と芳崖を結び付けたのは、狩野春川友信(かのうしゅんせんとものぶ)である。友信は江戸浜町狩野家八代当主・狩野董川中信(かのうとうせんなかのぶ)の長男として江戸に生まれ、幼少時は芳崖や橋本雅邦(はしもとがほう)らと共に木挽町(こびきちょう)狩野家の狩野勝川院雅信(かのうしょうせんいんただのぶ)に師事した。フェノロサに芳崖を紹介したことで知られ、日本画の創造運動が展開された鑑画会(かんがかい)では中心画家として活躍し、東京美術学校が開校すると前年に没した芳崖に代わって日本画の助教授として後進を育てた人物である。友信は狩野派の正統でありながら、川上冬崖(かわかみとうがい)やチャールズ・ワーグマンから洋画を学んでおり、友信に師事した不崩もまた狩野派の伝統的な画技と洋画の技法を学んでいた。両者の出会いは明らかではないが、友信は明治17年頃、麹町区二番町に住んでいたことから、一番町に住んでいた不崩とは地理的に近かったことも要因であったのかもしれない。

芳崖との出会いについて、不崩の回想を以下引用する(注4)

予(※不崩)が初めて先生(※芳崖)に会ったのは明治十七年で、其時分予は狩野友信翁の門に洋画を習って居った。(中略)或る時友信翁が、一緒に来いと言はれるから、従って行ってみると、老人揃の集会である。何んだか色々な話があったが、其内の一人で、へんてこな人がなかなか面白い研究談をやった。あとで聞くと、それが芳崖先生であったのだ。
は著者による補足。

この時集まったのは有賀長雄(ありがながお)宅で、芳崖以外には狩野永眞(かのうえいとく)、友信、木村立嶽(きむらりつがく)の他2、3人が居た(雅邦、岡倉は不在)。この会の趣旨は鑑画会の相談で、この場で友信が不崩を芳崖に紹介したという。その後も鑑画会で何度も芳崖と顔を合わせ、いつしか友信から芳崖に絵を見てもらうように言われ、芳崖から直接的な指導を受けるようになった。(続く)

 

(注1)岡吉正編「岡不崩生誕百貮拾年記念 追録Ⅰ 回想録」(非売品、1990年)。「岡不崩画伯略伝」(不崩後援会、発行年不詳)では明治13年、「日本書画報 初編」(日本画報会、1905年)では明治12年とされる。
(注2)岡吉寿編「宮崎道正伝」(岡吉壽、1931年)
(注3)前掲(注2)
(注4)岡不崩「しのぶ草」(日英社、1910年)

福井県立美術館 学芸員 椎野晃史)
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