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FUKUI MUSEUMS [福井ミュージアムズ]

よもやま話Yomoyama talk

駅弁の掛紙 ~歴史資料としての有効性について~

はじめに

駅弁の包装紙である掛紙は、印刷されている図案がバラエティーに富んでいることから、趣味としての収集品として集められることが多く、現在ではインターネット上に収集品を公開するサイトが幾つも存在します。

趣味としての掛紙収集の歴史が古いことは、残されている貼込帖の多くが、戦前にまで遡ることから知ることができますが、それらの貼込帖を見ると、コレクションとしての収集品のばあいと、旅の記念品の一つとしての収集の二通りの方法があったことがわかります。このような個人レベルでの収集のほかに、最近では博物館の資料収集事業の一環として掛紙を収集し、展覧会などで公開されることもおこなわれるようになりました。

当館でも、以前から資料の一部として少数の掛紙が収蔵されていましたが、近年になり大幅に補強され、現在では5,000枚を超える明治から昭和に至る様々な掛紙のコレクションを収蔵するに至っています。掛紙の用途は、単に駅弁の包紙に過ぎないのですが、そこに描かれている図案や記されている標語は、その時々の世相を反映することが多くあり、それらを分析することにより、歴史資料として十分に活用できる性格を有しています。本稿では、以下に若干の資料例を示し、掛紙の歴史資料としての有効性についてご紹介したいと思います。

ビジュアル化のはじまり

最初の駅弁が、いつ、どこで売られたのかは資料に恵まれていないことから、明治18年宇都宮駅、明治16年熊谷駅、明治10年神戸駅をはじめとする諸説があり定かではありません。そのため初期の駅弁を包んでいた掛紙がどのような様式であったのかも不明です。

資料1

資料1は、当館で所蔵する掛紙の中で最も古く遡ることができる、明治30年代前半の宇都宮駅の掛紙です。描かれた図案は単純な短冊であり、それに駅名、弁当名、他の販売品目を記したのみであることから、初期の掛紙が製造元の宣伝広告的な色彩が強いことがわかります。

掛紙の様式が大きく様変わりしたのは、明治36年(1903)に鉄道当局により出された「停車場構内物品販売営業人従業心得」に「弁当、鮨、サンドウィッチ等ノ包紙ニハ左記事項ヲ鮮明ニ印刷スベシ」とし、「種類、等級、代価及び製造店名」「其駅付近ノ名所又ハ旅客案内トナルベキ事項」「本品ニ付不良又ハ不注意アリタルトキハ郵税先払ニテ申告希望ノ旨」と定められてからです。

資料2

資料2の掛紙は、明治39年頃に静岡駅で販売した三盛軒(現、東海軒)のもので、図案として、「今川義元古跡」久能山」安倍川鉄橋」を紹介したものであり、先に述べた明治36年の「停車場構内物品販売営業人従業心得」を踏襲したものであることがわかります。これ以後、図案がバラエティーに富むようになり、時には社会の様相を写し出すようになります。

旧外地・満州での使用例

駅弁は、戦前は日本本土のみではなく、樺太や朝鮮をはじめとする旧外地や、南満州鉄道などでも販売されていました。

資料3

資料3は、太平洋戦争終了時までは日本領であった樺太の豊原(現、ユジノ・サハリンスク)駅の掛紙です。図案は、南樺太の地図に鉄道路線図を配し、樺太の玄関口である大泊までは、北海道の稚内より連絡船で所要8時間であることを記しています。また、右上には名所として、樺太の総鎮守・総氏神であった樺太神社を紹介しています。

資料4

資料4は、満州の奉天駅の掛紙で、清の太宗・文皇帝と、その妃を祭っている北陵を図案としています。奉天は、満州の代表的な都市の一つとして、南満州鉄道の主要駅でもあり、特急「あじあ」号の停車駅でした。

資料5

資料5は、戦前には多数の日本企業が進出していた、安東市(現、丹東市)に所在する安東駅の掛紙です。図案には現在の中国と北朝鮮の国境に流れる鴨緑江に架けられた可動橋を大きく描き、「朝鮮と支那の境の鴨緑江 架けし鉄橋は 東洋一 十字に開けば 真帆片帆行き交ふ 戒克の賑はしさ」と記しています。また、右上の囲みに描かれたのは、安東神社が所在した鎮江山公園です。

国策への利用

昭和12年(1937)に日中戦争がはじまり、それが長期化し戦争の時代に突入すると、国民の戦意高揚を図る方策の一つとして、掛紙も利用されます。