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FUKUI MUSEUMS [福井ミュージアムズ]

よもやま話Yomoyama talk

研究ノート「狩野松伯について」

今をさかのぼること400年ほど前、桃山から江戸時代の初期に、狩野松伯(かのうしょうはく)という名の絵師がいたのをご存知でしょうか?知っているとすれば、その方は“超”画家オタクです。恥ずかしながら筆者も学芸員としてこの美術館で働くまで、その名前すら知りませんでした。さて、その無名の松伯ですが、実は福井とは浅からぬ関係のある人物なのです。

松伯については幕末に編纂された画家事典『古画備考(こがびこう)』に、数種の系図を掲げて紹介されています。それによれば本名は直義(なおよし)、あるいは與市(よいち 與一)といい、別に雪川(せっせん)の号もあったといいます。生没年は不詳ですが68歳で亡くなったことが分かっています。戦国武将織田信定(おだのぶさだ 織田信長の祖父)の子の次男として生まれたとする系図もありますが真偽のほどは不明です。絵は狩野永徳(かのうえいとく)の父である狩野松栄(かのうしょうえい)に学んでおり、松伯の名も師の名前から付けられたものでしょう。狩野の姓を免許されて法橋(ほっきょう)の位も授けられたといい、一説に永徳の養子となったとも伝えることから、松伯が師から厚く信頼され、かつ技量にも秀でた絵師であったことをうかがわせます。師没後はその子で永徳の弟でもある長信(ながのぶ)を頼って江戸に下り、最後は越前で没しています。

松伯の活動については不明な点が多く、作品も現在確認されているものは残念ながら皆無です。わずかに後世の模本で「虎渓三笑図(こけいさんしょうず)」(東京国立博物館蔵)が、同様に與市を名乗った子の作である可能性を含めて知られるに過ぎません。また記録上では慶長10年(1605)に狩野内膳(かのうないぜん)が公家の舟橋秀賢(ふなばしひでかた)に、平家物語図制作に際して図様の相談をし、その使者として秀賢のもとに狩野與一が赴いたことが彼の日記に記されるほか(『慶長日件録』慶長10年正月6日条)、寛永 10年(1633)に喜多院(きたいん 埼玉県川越市)の書院に「鶴亀天台山」を描いたことが寺の文書に見えるのみです。

このうち、前者の記録は特に興味ある内容といえます。すなわち狩野内膳は桃山時代の狩野派の有力絵師ですが、松伯同様、狩野松栄に師事していました。つまり松伯とは兄弟弟子の間柄─年代から内膳が兄弟子か─で、内膳の下でその制作を補助する関係であったと思われます。しかも内膳は一説に岩佐又兵衛の師であったといわれる人物です。内膳の父は又兵衛の父とされる武将 荒木村重(あらきむらしげ)の家臣で、かつ両者は「豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ)」という同工異曲的な作品を残しています。もし内膳と又兵衛が師弟関係にあったならば、当然内膳の下にいた松伯と又兵衛も既知の仲であったはずです。松伯は先述の通り越前で没し、その子直利も又兵衛同様、三代藩主忠昌に仕えています。一方の又兵衛も元和2年(1616)頃に京から越前に移住していますが、京で絵師として名声を得ていた又兵衛が、様々な面で有利な京を捨てて越前の地へ下ったのには大きな理由があったはずです。そこには作品制作のために福井藩の招き応じたとの見方が有力ですが、さらに想像をたくましくすれば、越前下向の裏には松伯の手引きが少なからずあったと考えることも不可能ではないかもしれません。少なくとも当時は今の我々が考える以上に、地縁や血縁、師弟関係が重んじられた時代であったことは確かです。ちなみに又兵衛移住の年の4月には内膳が没し、寛永17年(1640)に又兵衛が歌仙図を描いた仙波東照宮は、松伯が障壁画を描いた喜多院の境内社だったのは偶然といえばそれまでですがどこか不思議な縁を感じさせます。

松伯の家系はその後も続き、一つは二代藩主忠直の血統である津山松平藩の御用絵師となり、一つは福井藩御用絵師の奈須家へと受け継がれました。その意味でも松伯の存在は、近世初期の越前における絵画活動に重要な位置を占めており、引き続き調査を行っていきたいと考えています。

福井県立美術館 学芸員 戸田浩之)
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