福井の先人たちPioneer
松平 春嶽
激動の幕末に日本の舵を取った明君
明君誕生
文政十一(一八二八)年、春嶽は徳川御三卿である田安家三代斉匡の六男として江戸に生まれた。十一歳で越前松平家の養子となり、藩主に就任。
天保十四(一八四三)年、十六歳の時に初入国すると、当時九十万両もの負債を抱え疲弊していた藩政の立て直しに着手。遠く熊本から横井小楠を政治顧問として招き、藩医の橋本左内や下級武士であった三岡八郎(当時は由利公正)などを登用して改革を進めた。
混乱する幕政の中で
嘉永六(一八五三)年、黒船来航。国内が動揺する中で春嶽は早くから開国論を主張し、薩摩や土佐など雄藩の大名とともに国政にも積極的に参画するようになる。しかし、当時幕府が直面していた将軍継嗣問題に当たって、大老の井伊直弼らと対立。政争に敗れ隠居謹慎の処罰を受ける。
再び国政の表舞台へ
しかし万延元(一八六〇)年、「桜田門外の変」で井伊大老が暗殺されると、春嶽も罪を許され、新設された政事総裁職、いわば総理大臣の地位へと一気に駆け上がる。春嶽は京都守護職を設置し会津藩主・松平容保をその任に充てたほか、皇女和宮の降嫁、将軍・徳川家茂の上洛など、公武合体政策を推進した。
新生日本のために
維新後も新政府の中でも要職を歴任したが、明治三(一八七〇)年に一切の官職を辞して晩年は文筆活動に専念。そして明治二十三(一八九〇)年、激動の時代の最前線で奮闘を続けた偉大なリーダーは、六十三歳で静かにこの世を去った。