福井の先人たちPioneer
由利 公正
財政危機の救世主、新しい国づくりにかけた情熱
福井藩も藩士の家も『火の車』
由利公正は文政十二(一八二九)年、福井城下毛矢町(現在の福井市毛矢一丁目)に福井藩士の長男として生まれた。当時の福井藩の財政は非常に苦しく、同様に藩士の家も家計は火の車だったという。
藩財政の建て直しに尽力
由利が成長し、藩に出仕するようになった頃、福井藩で政治指導に当たっていたのは、熊本藩から招かれた横井小楠であった。産業の振興を図って富を蓄える「殖産興業」の考え方に共鳴した公正は、小楠に師事。藩の財政改革に取り組んだ。
当時、福井藩が背負っていた借金は九十万両という莫大なもの。これを解消するため、公正は「藩札」を発行し、生糸の生産者に融資した。その一方で、長崎のオランダ商館と生糸の販売契約を結ぶなど、販路開拓にも積極的に取り組み、十年後には見事、藩の財政を黒字へと導いたのだった。
龍馬の推挙で日本最初の財務大臣に
この藩政で見せた由利の手腕に目を付けたのが坂本龍馬だった。はるばる福井まで公正を訪ねた龍馬は、公正を新政府の役人に推挙。龍馬の推薦により、由利は「御用金穀取扱方(ごようきんこくとりあつかいかた)」、今で言う財務大臣に就任した。
明治新政府の財政も以前の福井藩と同様苦しいものであったが、由利は日本初の全国通用紙幣『太政官札』を発行し、新政府の財政危機を救った。
色あせないその先見性
「御用金穀取扱方」となった翌年、由利は「五箇条の御誓文」の原案「議事之体大意」を起草。その後、明治四(一八七一)年には東京府知事に就任し、煉瓦造りで統一した銀座大通りを計画するなど、東京の都市計画を手がけた。また、同七(一八七四)年には『民撰議院設立建白書』に署名し、国会開設にも携わっている。常に時代の先を読み、その非凡な才能を中央でも遺憾なく発揮した由利。日本の基礎を築く上で大きな役割を果たし、明治四十二(一九〇九)年、八十一歳で生涯の幕を閉じた。