よもやま話Yomoyama talk
一乗谷の出土銭
物資の流通には、主に銭貨が用いられていました。基本的に1枚1文とし、10枚で1疋、100枚を1緡とし、1,000枚を1貫文といいます。朝倉氏は、棟別銭・反別銭の徴収や半済により蓄財し、例えば応仁の乱で焼失した清水寺の再興奉加の記録(「清水寺再興奉加帳」)では、英林孝景が500貫文、氏景・貞景がそれぞれ1,000貫文を寄進しています。また、物の価格の例として、一乗谷の阿波賀で行われた年貢米の取引相場記録(越前国二上国衛米納下注文「真珠庵文書」)によると、永禄8年(1565)には米1石当たり600文であったことが知られます。
さて、これまでに一乗谷から出土した銭貨はすべて銅銭で、28,000枚余りを数えます。これらの銅銭は、中国銭が約95%と大半を占め、残りはヴェトナム銭、朝鮮銭、琉球銭などです。また、日本で中世に中国銭を鋳写した模鋳銭が、数パーセント含まれることもわかってきました。銭種は、前漢代初鋳の五銖、新代初鋳の貨泉から、明代1527年初鋳の嘉靖通寶まで85種と豊富です。ちなみに、嘉靖通寶に続く明銭は1574年初鋳の万暦通寶で、朝倉氏滅亡後ということもあって出土していません。量の比率では北宋銭が多く約80%を占め、銭種では皇宗通寶、元豊通寶、熙寧元寶、元祐通寶が主体で、全体の35%余りを占めています。銭種による量の比率は、日本各地の出土銭に見られる傾向とほぼ合致していることから、日宋・日明貿易によって日本にもたらされた莫大な量の銅銭の全体内容を反映していると考えられ、銅銭が銭名を問わず1枚1文で取引されていた証と言えるかもしれません。
出土状態には、1枚1枚が単体の場合と、数枚~数十枚が円柱状に付着して出土する場合、100枚程度が藁紐で綴じられ緡(さし)状態で出土する場合があり、付着した状態のものは、元は緡状であったと推測されます。銅銭は、数枚が町屋の道路に面した溝から出土する例が比較的多く、実際の城下町で使われていたことがわかります。数千枚以上がまとまって出土した備蓄銭は2例にとどまりますが、蓄財がなされたことを示しています。備蓄銭からは埋没当時の流通銭の実態がわかります。第57次発掘調査(1987年)では、大規模な武家屋敷の井戸から16,594枚の銭が出土しました。銭種は80を数え、比率は上述の傾向と同じです。遺跡で出土する可能性のある最新銭、嘉靖通寶や、他では数点しか確認できないヴェトナム銭が10種58枚含まれています。朝倉氏滅亡時に、持ち主が隠匿するため井戸に投棄したと見られるので、天正元年(1573)の基準資料と位置付けられます。第52次発掘調査(1985年)では、小規模武家屋敷の床下で、笏谷石の円筒を据えた石組みの穴から50種3,784枚が出土しました。円筒には越前焼の擂鉢で蓋がされていて、備蓄専用の施設と考えられます。銅銭も磨耗のない良質なものばかりで、相当大切にしていたことがうかがえます。
流通とは離れて、中の御殿跡では地鎮の供物に銅銭が用いられていました。2例あり、東の崖下では、土師質小壺に唐国通寶2枚、至大通寶・太平通寶各1枚がおさめられ、門の柱穴礎板上には、周通元寶、唐国通寶、至大通寶の3枚が納められていました。いずれも良質で、銭名にもこだわりが感じられます。一乗谷の火葬場である武者野遺跡では、火葬骨や土師質皿にまじって銅銭が出土し、六道銭の風習があったこともわかります。特殊な例では、数珠作りの家から2軒北隣の町屋から五銖1枚、貨泉3枚、和同開珎2枚、至大通寶2枚が錆付いて出土しました。希少な銭種ばかりなので、コレクターがいたのかもしれません。
銅銭自体は銭名を問わず1枚1文で取引され個性がありませんが、このような出土状況から、銭にかかわる人々の姿が見えてくるように思えます。