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FUKUI MUSEUMS [福井ミュージアムズ]

よもやま話Yomoyama talk

一乗谷と周辺の城

朝倉氏が一乗谷に城下町を築いた理由の一つとして、天然の要塞である山地によって一乗谷の四方が守られていたことがあげられます。しかし、単純に天然の要塞だけで加賀の一向宗徒や近隣の戦国大名といった諸勢力からこの谷あいの城下町を守ろうとしたのでしょうか?

実は一乗谷の周辺には、朝倉氏やその家臣たちが築いた城や防御施設があることが現地調査によって確認されています。まず、一乗谷を南北に閉塞する防御施設として下城戸と上城戸があげられます。そして、朝倉館背後の一乗城山(標高475 m)の山頂には、140条以上の畝状竪堀によって囲まれた千畳敷や一の丸など多くの平坦地があります。これが一乗谷の「本城」である一乗谷城です。「(朝倉)家景(西暦1402~1450年)、一乗城に居す」(『朝倉家伝記』)とあるように、早くから一乗谷、もしくは山上の一乗谷城が「本城」としての本格的な防御機能を有していたと考えられます。

また、一乗谷城は標高が約450m以上ある一方で、その向かいの御茸山は標高約250m程度と200m以上の比高差があり、一乗谷城の中の見張り場である「宿直(とのい)跡」からは、遠く福井平野や三国湊を眺めることができます。城からの眺望の点においても、朝倉氏が一乗城山に城を築いた意図を読み取ることができます。

さらに、一乗谷の周辺を見渡すと、朝倉一族やその家臣が築いたといわれる「支城」が多く点在しています。支城とは、本城と密接に関連し、敵を迎撃する場合や防御の際に補助的な役割をする山城といわれています。

一乗谷の東方、三万谷を越えた旧美山町には宇坂城、西方には槇山城や東大味城、北方には成願寺城、南方には三峰城があり、三峰城のさらに西方の尾根上には丹波岳城や文殊山城が築かれ、福井平野や鯖江を眼下におさめていました。さらに、槇山城と東大味城の間のいくつかの地点で、尾根上を堀で断ち切るなど、これらの城は「点」ではなく「防御線」として連結して機能していたと考えられます。このように、一乗谷の周辺は城や防御施設によって、何重にも防御線が張り巡らされていたのです。

〈参考文献〉
鳥羽正雄「日本城郭辞典」東京堂出版 1971年
南洋一郎「一乗谷城」「福井市史 資料編1 考古補遺」福井市 1996年

(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 松本泰典)
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