よもやま話Yomoyama talk
島田墨仙をめぐる人々
帝国芸術院賞受賞者であり、歴史人物画の第一人者として名を馳せた日本画家・島田墨仙は慶応3(1867)年に福井藩士・島田雪谷の次男として福井城下に生まれました。父雪谷は福井藩の下級藩士でしたが、書画の才能に恵まれ、日々の役向きのほかに藩主松平春嶽公に書画の指南役として重用されました。絵心のある藩内の子弟も競ってその門に入り、幕末から明治初年にかけて一時は千を越す門弟を抱えたと伝えられています。そのなかには当時の福井の重要人物も含まれており、息子墨仙の成長に多大なる影響を及ぼします。
その筆頭に挙げられるのは幕末の志士・橋本左内です。島田家と橋本家は家が隣同士だったので、少年の左内はよく島田家に顔を出して8歳年上の雪谷から絵や書を習うのを楽しみにしていました。墨仙の生まれる8年前左内はすでに世を去っていましたが、島田家には左内の遺墨が数多く遺っていました。後に雪谷はそれらを見せながら「左内さんはお前の年にはこんなに立派な絵を描いて、その上この通り上手な賛までしているのに、お前は悪戯遊びばかりしていてどうするのだ」(注1)と豊少年(墨仙)を戒めたということです。いかに“悪戯小僧で手がつけられなかった”豊少年とはいえそのような高尚な作品を見せられては反省せざるを得ず、左内に対してひそかに敬慕の念を抱くのでした。後に墨仙は橋本左内や藤田東湖、吉田松陰、佐久間象山などの幕末の志士たちの肖像を好んで描いていますが、それは幼い頃から聞き親しんだ隣家の偉人から受けた深い感銘とその時代への探究心の表れともいえるでしょう。
明治初期の西洋画家・小林寿、大平広正も雪谷から日本画を学んでおり、後に墨仙の師となります。墨仙は9歳頃から父雪谷に就いて絵を学び始めましたが、16歳で父を亡くしています。その後18歳で東京美術学校入学のため東京小石川植物園内の図画取調掛を訪ねますが、岡倉天心からまだ開校前であるから郷里で待つように言われ失意のうちに福井に戻ります。そのようなとき墨仙に絵を教えてくれたのが上述した小林寿と大平広正の二人でした。小林は藩校「明新館」のアメリカ人教師グリフィスから図画を学び、大平は東京の彰技堂で西洋画を本格的に学んでいました。彼らは墨仙の父から学んだことに対する恩返しの意味で、当時最先端の西洋画の技術を墨仙に教授し、19歳頃には本人の納得いくレベルにまで導きました。この二人の師が与えた西洋画の表現、正確な物の見方、特に人体骨格などの写実の知識は、日本画の非写実表現に慣れ切っていた墨仙にとって新鮮で大いに触発を受けるものでした。また、父亡き後の島田家では、2歳年上の兄雪湖(せっこ)が、亡父の門弟を教えたり、新聞の挿絵描きをしたりして、生計を立てていました。苦労している兄を助けたい一心の墨仙のために小林、大平の二人は墨仙が福井中学校(注2)や福井高等女学校(注3)で教職を得るよう尽力しました。
後に29歳で上京して橋本雅邦に入門し、日本画家・島田墨仙へと成長していく過程には、さらなる紆余曲折がありましたが、父雪谷が紡いでくれた福井の人々とのつながりが墨仙を常に励まし、支え続けてくれたのでした。
(注1) 島田墨仙述「墨仙自叙伝(三)」『国画』第3巻第10号 昭和18年10月
(注2) 『創立五十周年記念録 福井県立福井中学校』昭和6年10月
(注3) 福井県立藤島高等学校(旧福井中学校)同窓会 社団法人明新会事務局より平成22年4月聞き取り調査