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FUKUI MUSEUMS [福井ミュージアムズ]

よもやま話Yomoyama talk

若狭の民俗芸能

民俗の宝庫と言われる若狭地方では、祭りや行事のなかでさまざまな舞いや踊り、演劇や音楽などの芸能が上演されています。ここではそうした若狭の民俗芸能のなかから、神社の祭礼で行われているものを中心にいくつか紹介し、その歴史や意味などについて解説を加えてみたいと思います。

王の舞(おうのまい)

王の舞とは、鼻高面をつけ鉾(ほこ)を持って舞う芸能で、現在、嶺南地方の16か所17神社の祭りで演じられています。地元では「オノマイ」とか「オノマイさん」などと呼ばれています。

王の舞は、獅子舞や田楽(でんがく)などとともに、平安時代末期から鎌倉時代頃にかけて、奈良や京の都の祭礼をにぎわしていた芸能です。やがて王の舞は、若狭におかれた荘園の鎮守社の祭礼に、領主である奈良や京都の大社寺の祭礼をまねたものが導入されていった結果、獅子舞や田楽などとセットで伝えられました。都ではすでに見られなくなった芸能ですが、八百年の時を超えて、若狭では今なお生きた形で伝え残されており、若狭の民俗芸能のなかで最も注目されているものです。

若狭町気山(きやま)の宇波西(うわせ)神社(毎年4月8日)と美浜町宮代(みやしろ)の(みみ)神社(毎年5月1日)のものは、若狭の王の舞の双璧と言ってよいもので、どちらも一時間近い演技時間を要し、たいへん見応えがあります。力強く地面を踏みしめ男性的に舞う宇波西神社の王の舞に対して、弥美神社の王の舞には女性的な美しさがあると言われます。弥美神社の王の舞は、真っ赤な着物に孔雀の羽根を使った美しい鳥兜(とりかぶと)をかぶり、なめらかに、かつ躍動的に、約50分間舞い続けます。足腰の強さと柔軟性が要求され、見た目の優雅さに反して演じる若者にはとても過酷な舞いです。見事な演技には「大豊年!」のかけ声がかかります。

  • 宇波西神社 王の舞

  • 弥美神社 王の舞

棒振大太鼓(ぼうふりおおだいこ)

 小浜放生祭(おばまほうぜまつり)(毎年9月敬老の日直前の土日)や西津七年(にしづしちねんまつり)(巳年・亥年および丑年の5月4日・5日頃)をはじめ、小浜市を中心に若狭町の旧上中町域やおおい町の旧名田庄村に多く見られるのが、棒振芸をともなう大太鼓です。これを単に「大太鼓」と呼ぶところが多いですが、ここでは棒振大太鼓という名称にしておきます。これは、唐子風の衣装を着て頭にはシャグマ(毛頭)をかぶり、両端に(しで)の房のついた6尺ほどの長さの棒を持った二人または三人が一組となり、大太鼓と(かね)(時には笛も加わる)の大音響の囃子(はやし)に合わせて、棒を回したり打ち合わせたりするものです。演技時間はわずか一分足らずの短いものですが、豪快かつ素早く激しい動きで、アクロバティックな場面もあって、なかなか見応えがあります。棒振の演技のあとは、子供たちや青年たちが大太鼓の曲打ちを披露します。

小浜放生祭の住吉(すみよし)区や西津七年祭の小松原(こまつばら)川西(かわにし)区など、棒振大太鼓には行列の先頭に傘鉾(かさぼこ)がつくものが多く見られます。囃子の楽器の構成は異なりますが、傘鉾とともに、シャグマをかぶった棒振と囃子が一団となって動いていく姿は、京都祇園祭(ぎおんまつり)の綾傘鉾(あやがさぼこ)や四条傘鉾(しじょうかさぼこ)とよく似ています。京都祇園祭の傘鉾は、長刀鉾(なぎなたぼこ)に代表されるような、鉾とともに囃子方や稚児(ちご)が屋台に乗り込んだ鉾車の形態になる以前の、古い時代の鉾の姿を示すものとされます。傘鉾は疫神(えきじん)の依代(よりしろ)であり、それを太鼓・鉦・笛の囃子や棒振が囃したてながら移動していくという、中世後期に疫神送りの芸能として流行した風流囃子物(ふりゅうはやしもの)の形態を伝えています。住吉区の棒振大太鼓も江戸時代前期には「傘鉾」または「笠鉾」の名で史料に記されています。

棒振大太鼓の大音響の囃子には、音の呪力のようなものを感じますが、これに合わせて「ホウ、リョウ、リョウ、リョウ、リョウ」というかけ声がかけられます。このかけ声は、悪魔払いの意味をもつとされています。また、道行きの際、交差点にさしかかると二人の棒振が一、二度カンカンと棒を打ち合わせ、左右入れ替わってから角を曲がっていきます。これは辻々に潜む悪霊や疫神などを払い鎮める意味をもつものと考えられます。棒振大太鼓が疫神送り、悪霊払いの性格をもつ芸能であることをよく示しています。

  • 小浜放生祭 住吉区の棒振大太鼓

  • 小浜放生祭 住吉区の傘鉾

太刀振(たちふり)

 高浜七年祭(たかはましちねんまつり)(巳年・亥年の6月卯の日から酉の日までの7日間)をはじめ高浜町内の何か所かで行われている民俗芸能に太刀振あるいは振物(ふりもの)と呼ばれるものがあります。太刀振・振物は、高浜町から京都府の丹後地方にかけて数多く見られます。これは、刀や薙刀(なぎなた)、棒、槍など、さまざまな武器を持った二人から数人の者が相対して切り組みを見せるものです。小浜市の西津七年祭でも太刀と呼ばれる同様のものがあります。

なかでも高浜七年祭の太刀振は、半年間にも及ぶ稽古で鍛え上げられた若者たちによる見事な演技です。「橋弁慶」「伊達風俗」「彦山権現」など芝居仕立てになっていて、薄化粧をした若者が、激しく素早い動きで立ち回り、また、にらみ合いと、緩急を際立たせて鮮やかに演じます。目の先寸前に突き出された刃物を間一髪でかわす立ち回りに手に汗をにぎり、歌舞伎風に見得を切る華のある仕草にひきつけられて、5分間ほどの演技中目が離せません。祭り期間中、太刀振の追っかけギャルが出現するのも納得です。

太刀振には芝居仕立てのもののほかに、本身の薙刀を二人がゆっくり振る「大薙刀(おおなぎなた)」と呼ばれるものがあり、これは神輿(みこし)が動く前の儀式として必ず行われるものです。「大薙刀」は地清めともいい、神輿の神幸路を払い清める、露払いの役割を持っていることがわかります。このように太刀振は、元々、悪霊払いのために薙刀や太刀、槍などの武器を持って神輿警護に付き従っていた者が、要所で芸を披露したことから発展していった芸能だと考えられています。やはり中世に京都の祭礼で行われていたものが各地に伝わったものとされます。高浜七年祭においても中世末に祭りが始まった当初から太刀振が行われていたと考えられています。

  • 高浜七年祭 中ノ山太刀振「熊坂」

  • 高浜七年祭 東山太刀振「鈴ヶ森」

山車(やま)の囃子

 あまり知られていないことですが、現在、若狭の民俗芸能で最も伝承数の多いのは、大小の太鼓と笛によるお囃子です。正確な数はわかりませんが、120か所以上の地区で伝承されています。若狭は横笛の吹ける人の人口密度が非常に高い地域と言えそうです。

本格的な山車の上で演奏するもの、小型の屋台を曳き、囃子方は歩くもの、山車や屋台は何もなく、太鼓を人が担いで動くものなど形態は様々ですが、東は美浜町から西は高浜町まで、よく似たメロディのお囃子が演奏されています。この若狭のお囃子は、小浜放生祭(江戸時代までは小浜祇園祭)の山車の囃子が周辺地域の氏神祭礼にとり入れられていき、現在のような大きな広がりを持つにいたったものと考えられます。

小浜放生祭の山車の囃子は、大太鼓1、小太鼓2と笛大勢により演奏されるもので、20曲前後の曲があります。ゆったりとした曲から急テンポの激しい曲まで、バラエティに富んだ美しい音色のお囃子で、たいへん聴き応えがあり、演奏する人たちにもお囃子に夢中になる人が多く、奥の深い魅力があります。近年は「おはやし会」と称して、じっくりお囃子が聴ける機会が設けられたり、各種の催しにお囃子が演奏されたりするようになり、広く知られるようになってきました。県外の全国曳山囃子大会等にも参加し、極めて好評を博しています。

小浜放生祭の山車の囃子には、一般的な篠笛(しのぶえ)ではなく、雅楽(ががく)などに使われる龍笛(りゅうてき)と同じサイズの笛が用いられています。京都祇園祭や大津祭(おおつまつり)、伊賀上野天神祭(いがうえのてんじんまつり)なども篠笛ではなく龍笛や能管(のうかん)が使われており、小浜放生祭の囃子も歴史の古さを感じさせられますが、今のところ小浜の囃子がどこから伝わったかについては明らかにされていません。

小浜放生祭 酒井区「布袋山」の囃子の演奏(1998年11月8日 若狭歴史民俗資料館にて)

三匹獅子舞(さんびきじしまい)

これまで紹介したものや、六斎念仏(ろくさいねんぶつ)、和久里壬生狂言(わくりみぶきょうげん)など、若狭の民俗芸能の多くが京都方面から伝わったと考えられますが、この三匹獅子舞は関東から伝わった珍しい民俗芸能です。

一般的な獅子舞は二人が幌幕の中に入って舞う二人立ちの獅子舞ですが、この獅子舞は一人で獅子頭をか

ぶり胸につけた太鼓を打ちながら舞う一人立ちの獅子舞で、老若二匹の雄獅子(おじし)と一匹の雌獅子(めじし)が笛や歌に合わせて舞うことから、三匹獅子舞と呼ばれています。小浜市のお城祭り(毎年5月2日・3日)に出る獅子(うんぴんじし)が有名ですが、小浜放生祭に玉前(たままえ)区、男山(おとこやま)区、多賀(たが)区、日吉(ひよし)区が出す「獅子(しし)」も三匹獅子舞です。これらの獅子舞に使う獅子頭は、頭から背中にかけてびっしりと鳥の羽根でおおわれています。 

三匹獅子舞は関東地方を中心に東日本には数多く分布していますが、西日本にはこの小浜の5地区以外には見られません。寛永11(1634)に小浜へ国替えになった藩主酒井忠勝が、旧領地の武蔵川越(かわごえ)から演者を連れてきたために伝わったものです。「関東獅子」あるいは「川越獅子」とも称されたこの獅子舞は、江戸時代には小浜藩の足軽関東組(かんとうぐみ)だけに伝承がゆるされたもので、天王(てんのう)社(現廣嶺(ひろみね)神社)の祇園祭と城中での祝典以外の演舞は禁じられていたといいます。

演技は、雌獅子をめぐって雄獅子が争い、やがて和解するという筋書きになっています。雄獅子が激しく争う場面などは迫力があります。歌の歌詞は16番まであり、全体(一庭(ひとにわ))を舞い納めるのに40~50分かかり、舞い手はかなり体力を要します。 

  • 雲浜獅子

(垣東敏博)
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