よもやま話Yomoyama talk
福井画人列伝 芳崖門下の学者画家・岡不崩[其の壱]
岡不崩(おかふほう 1869~1940)という画家をご存じだろか。おそらく美術史の専門家でも、画家の名前は知っていても具体的な作品を思い浮かべることは難しいのではないだろうか。不崩は越前大野の地に生まれ、上京後は近代日本画の祖・狩野芳崖(かのうほうがい)に師事し、岡倉秋水(おかくらしゅうすい)、高屋肖哲(たかやしょうてつ)、本多天城(ほんだてんじょう)とともに「芳崖四天王」と称された日本画家である。しかしながら後年は本草学へ傾倒し、研究者として名を馳せた変わった経歴の持ち主で、その人と作品はよくわかっていない。ここでは全4回の連載として、この知られざる福井出身の画家の生涯および作品に光を当ててみたい。
不崩の経歴は、簡略ではあるが生前より各画集等に記載されており、上京後の様子は各新聞や雑誌などのメディアを通じて、およそその足跡を辿ることができる。更には不崩の三男である岡吉正氏が不崩の生誕120年を記念して編纂された記念誌も重要である(注1)。まずはこれらの資料を通して出生から上京までをみていこう。
出生から上京まで
不崩は越前大野藩士・岡吉秋( ~1872)の長男として、明治2(1869)年7月13日越前大野(現福井県大野市)に生まれ、本名 吉壽(よしひさ)、幼名を又太郎といい、初め蒼石と号し、後に不崩と改めた(他に楽只園や南山亭と号す)。福井県の東部に位置する大野は県内屈指の豪雪地帯であり、能郷白山をはじめとする山々に囲まれた美濃地方と北陸地方を結ぶ交通の要地である。天正年間に起こった一向一揆を討伐するため、金森長近(かなもりながちか)が織田信長の命により大野に入り、大野城を築城した。岡家はそんな大野城膝元に連なる侍屋敷の一角に住み、秩禄処分前の明治7年(1874)の時点で16石の家であった(注2)。不崩の母は大野藩の重臣・内山隆佐(うちやまりゅうすけ 1813~1864)の子である。隆佐は兄の内山七郎衛門(うちやましちろうえもん)と共に、越前大野藩7代藩主・土井利忠(どいとしただ)の命によって蝦夷地開拓を主導した人物であり、大野藩の重要人物であった。この家系に生まれた不崩もまた、幼少より武を好み軍人になることを志望していたという。しかしながら、明治5(1872)年に父を亡くし、母もその数年の内に亡くしている。その後、祖母ゑいと共に、祖母の弟で西周の門生であった永見裕(ながみゆたか)を頼って上京する。(続く)
(注1)岡吉正編「岡不崩生誕百貮拾年記念誌Ⅰ~Ⅴ」(非売品、平成元年7月13日~平成3年7月21日)
(注2)坂田玉子作製「大野町絵図」(坂田玉子、1975年11月)を参照した。この地図は明治7(1874)年前後の大野旧侍屋敷地域を図示しているが、不崩の両親はすでに歿しており、不崩の幼名である「岡又太郎」の表記が確認される。また明治7年の時は16石であるが、版籍奉還以前は160石程度の家禄があったことが想定される。