よもやま話Yomoyama talk
福井画人列伝 芳崖門下の学者画家・岡不崩[其の参]~芳崖入門についての覚書~
今回は芳崖の下に集まった若い画家、特に「芳崖四天王」と称された4人の画家について紹介する。芳崖にはのちに日本美術院の中心作家となる下村観山(しもむらかんざん)や、門下唯一の閨秀画家・前田錦楓(まえだきんぷう)、福井生まれの山本松渓(やまもとしょうけい)の他、「芳崖四天王」と称された四人の高弟が居る(注1)。岡倉秋水(おかくらしゅうすい 1869~1950)、高屋肖哲(たかやしょうてつ 1866~1946)、本多天城(ほんだてんじょう 1867~1946)、そして本連載の主人公・岡不崩(おかふほう)である。私の関心は同門の中でなぜ彼らが「芳崖四天王」に選ばれたのか、そして本来ならば四天王候補の大本命であるはずの観山がなぜ含まれていないのか、という2点にある。これらを念頭に置きながら、まずは彼らが入門した時期をそれぞれ確認しておこう。
芳崖四天王とその入門時期について
不崩曰く「芳崖先生の門人中では、予が一番故参」(注2)であったという。また別の資料でも「鑑画会の相談があった、其時初めて芳崖先生に接したので、それから後ち時々先生の宅へ伺つて、いろいろ教を受けました。その時は外に門人はお取になつてゐませんで、(後略)それから後に本多(※天城)氏が、やはり友信先生の紹介で入門されました」(注3)と繰り返されている。前回の連載で紹介した不崩の証言において、芳崖が出会ったのは明治17年と回想していることから、おそらく芳崖の教えを受けるようになったのも明治17年~18年頃と推定される。
次に岡倉覚三(天心)の甥にあたる秋水についてみていこう。秋水は、不崩や松渓と同じ福井生まれであり、芳崖に入門した時期も不崩と同じ明治17年あるいは18年と推定される。秋水の孫である岡倉日出夫氏は秋水の入門時期について、学習院に残る履歴書の記述―明治13年―と秋水が芳崖の「仁王捉鬼図」について書いた文章の記述―明治18年―を引用し、5年ほどの誤差について疑問を呈している(注4)。また『狩野芳崖 悲母観音への軌跡』の図録に掲載された年表では、岡倉秋水著「狩野芳崖翁の生涯と其作品」の記述から入門の年を明治17年としている(注5)。これらの記述を鑑みれば、やはり不崩と似たような時期に入門したと考えたい。天城はあまり資料が残されていないが、昭和9年発行の『本多畫伯小傳』(以下、『小伝』と略す)では入門を明治15年と記している(注6)。しかしながら東京藝術大学所蔵の履歴書では、明治18年3月の入門となっており、秋水同様、資料によって入門時期が異なるが、『小伝』において「翁時に本郷西片坊に住するを聞き」、入門を願うために面会を求めたと記している。このことから、『小伝』の明治15年入門説は芳崖が本郷西片町に転居した明治16年、あるいは17年以降の間違いと考えられる。よって、ここでは履歴書の明治18年5月入門と考えたい。
最後に肖哲だが、後年の回想で「私は十九年五月に芳崖師に弟子入りをしたのですが、先きに橋本雅邦先生の弟子に岡倉秋水、狩野友信先生の弟子に岡不崩本多天城の三君が芳崖師に就て画説を聞いておりました」(注7)とあり、明治19年5月、四天王の中では最後に入門したと考えられる。
以上、それぞれの資料から入門時期について確認してきたが、いずれも本人の回想に拠る部分が多く、確証は乏しい。しかしながら、明治18年9月12日から14日にかけて両国中村楼で開催された第1回鑑画会大会に不崩(梅渓の名で出品。ただし梅渓については不崩と同一人物である確証はない。)と秋水が出品していること、しかも秋水はこの時出品した「鷲」(所在不明)が4等賞を与えられていることから、この時期にはある程度の修練を積んでいたことが想定される。
芳崖門下における観山の位置
一度整理するならば、不崩が初めに入門し、その後秋水、天城、肖哲と続いたと現段階では仮定できようか。しかしながらここに疑問が生じる。観山の存在である。観山ははじめ藤島常興(ふじしまつねおき)に就いたのち、藤島の勧めにより明治15年頃芳崖へと入門し、その後明治19年に雅邦へ入門したというのが定説である。つまり観山は明治17年頃に芳崖へ入門した不崩より早く芳崖に就いて教えを受けており、「予が一番の故参」とする不崩の回想と矛盾する。しかしながら、改めて観山の芳崖入門について再考するならば、東京美術学校の履歴書の記載に注意を払いたい。履歴書では「明治十五年ヨリ藤島常興ニ従ヒ二年間南宗画修行」とあり、「明治十七年三月ヨリ橋本雅邦ニ従ヒ四年間北宗画修行」と続く。観山の三男である下村英時氏はこの履歴書について「芳崖に就いた事実の記載無し。如何なる理由に因るものか。十七年は十九年の誤りならん」(注8)と指摘しているが、確かに明治41年3月に刊行された『日本美術』に掲載される観山の雅邦談では、「僕(観山)は明治十九年に十四歳で先生(※雅邦)の門に入った。(中略)僕より以前に入門して居ったのが岡倉秋水、本多天城の二君で、(後略)」(注9)とある。また明治19年6月27日に浅草須賀町井生村楼で開催された鑑画会例会の記事では、「特に下村清三郎氏ハ年齢十三歳、橋本氏の門弟なるが其揮毫の雪景の山水は、恰も老練家の筆に成りたるが如く、実に後世恐るべしとて見る人舌を振るへり」(注10)とあることから、少なくとも明治19年6月には雅邦に学んでいたことがわかる。ちなみに後年の観山による芳崖談において、下村家と芳崖の関係について詳しく語られているが、観山が芳崖に入門した事について一切触れていないことも興味深い(注11)。
この関係から肖哲の談話も紹介しておきたい。昭和10年に肖哲が著わした『狩野芳崖伝』において、「東都の上りて日本画家たらんとするに際し、尤も格好の師匠として、芳崖先生に師事することになり、先生歿去の日まで待側し居りしも、他に真の弟子とてはなく真の弟子として、先生の薫陶を受けたものは予(肖哲)ひとりであった」(注12)として、明治21年時の狩野派系図を掲載している【図1】。それによれば、芳崖の系譜には自身一人を置き、雅邦の下に秋水と観山、友信の下に不崩と天城を配置している。補足として肖哲の回想を以下引用する(注13)。
私は十九年五月に芳崖師に弟子入りをしたのですが、先きに橋本雅邦先生の弟子に岡倉秋水、狩野友信先生の弟子に岡不崩本多天城の三君が、芳崖師に就て画説を聞いておりました。(中略)少し話がおくれましたが私は直接芳崖師の弟子となりしことの珍らしいのですか判らぬが、芳崖師は日本第一の画家と聞きましたが其通り矢張り文部省では大した話の様に聞きました。私の習画の手ほどきを狩野友信先生に委せられて(中略)、其内畫手本も進み次第に芳崖師に近づき高説を受くる様になりました。
要するに肖哲は初めから芳崖に直接弟子入りをしたのは自分一人であると主張したいのであるが(注14)、斯くいう肖哲自身も基礎は友信に習い、習画の段階が次第に進むにつれ、芳崖の高説を受けるようになったという。この回想は、それぞれが別の師に就きながら、同時に芳崖からも教えを受けていたことを伝えている。
その実態を伝える図画取調所に関する不崩の回想を以下引用する(注15)。
芳崖・友信翁二翁が毎日出勤して画をかいている。我々も毎日弁当を持て出かける。然し余等ハ掛員でもなんでも無い。それならば何んで行くのかそこが面白のだ。我々の頭脳にハ茲は役所であると云ふ考えが浮かばない。芳崖先生の画塾か鑑画会の事務所としか思へなかった。取調所の小使や植物園の人達は、余等を取調所の生徒だと思っていた。毎日出かけて行って鑑画会へ出品する画をかいている。古画の模写をやる、芳崖先生の画論を聞く、友信先生の彩色法を習ふ、庭園の写生をやる、下画が出来ると芳崖先生の批評を受ける、勝玉や貫義がやってくる、探美や立嶽なども遊ひにくる、雅邦もくる。どをしても画塾である。
当時の図画取調所の実態は狩野派の画塾のようなもので、狩野派の画家が集い、若い不崩らに画談を聞かせ、時には絵を批評するなど、自由な気風が感じられる。そのようにして修練を積んだ彼らは、開校間もない東京美術学校において、同級生から「芳崖四天王」と称され一目置かれることになる。つまり「芳崖四天王」という冠は一種のステータスであり、同時に美術学校開校直前に亡くなった芳崖の衣鉢を継ぐという意識を強く発信していたのである。
さて観山について話を戻すならば、観山は自身を芳崖門下と謳っていないし、芳崖四天王からも芳崖門下と認識されていないようである(注16)。もちろん芳崖の傍で接していた観山も、もれなく芳崖から薫陶を受けていたと考えられるが、観山の場合、4人と比べて芳崖との間に距離があったのかもしれない。例えば観山は、明治20年に不崩、秋水、天城を伴った芳崖の妙義山の写生旅行には同行していない(注17)。芳崖四天王を考えるなかで観山の存在は重要であると考えるが、紙面が尽きるため、冒頭の疑問は今後の課題とする。次回は不崩を中心に、弟子たちが見た師・芳崖について、当時のエピソードを交えながら紹介する。(つづく)
(注 1) 狩野友信の回想では、尾形月耕の弟・滝村弘方も初め狩野探美に就いていたが、後に芳崖の門に入ったと伝えている(狩野友信「芳崖逸話」『日本美術』第81号、1905年)。
(注 2) 岡不崩『しのぶ草』(日英舎、1910年12月)
(注 3) 不崩後援会編『岡不崩畫伯略傳』(刊行年不詳)
(注 4) 岡倉日出夫「岡倉秋水伝」『五浦論叢』第16号(2009年9月)
(注 5) 東京藝術大学大学美術館、下関市立美術館編『狩野芳崖 悲母観音への軌跡』(芸大美術館ミュージアムショップ/(有)六文舎、2008年)
(注 6) 『本多畫伯小傳』(1934年)
(注 7) 高屋肖哲「座談会の後に」『東京美術学校校友会月報』(1931年4月)
(注 8) 下村英時『下村観山伝』(大日本絵画、1981年8月)
(注 9) 下村観山「雅邦翁談」『日本美術』第109号(1908年3月)
(注10) 「雑報」『第日本美術新報』第32号(1886年6月)
(注11) 『近世名人達人大文豪』(大日本雄弁会講談社、1928年)において観山は芳崖のことは「芳崖」あるいは「翁」と記しているが、雅邦については「雅邦先生」と敬称を付けて記している。また観山は彼の少年時代の回想として、芳崖が観山の祖父や父と懇意の仲であり、よく愛宕下の下村家に遊びに来ていたことを紹介している。
(注12) 高屋肖哲『狩野芳崖伝』(高屋徳次郎、1935年)
(注13) 前掲註7。
(注14) ちなみに肖哲は天城を友信門と認識しているが、観山の回想では天城は雅邦門下と伝えている。
(注15) 岡不崩談「鑑画会の活動」(個人蔵資料『日本美術院百年史 一巻下』より)
(注16) 肖哲が明治35年に編纂した『芳崖遺墨(前篇)』では、門人として四天王と錦風、松渓を含む6名の名前を挙げているが、観山は含まれていない。
(注17) 肖哲は同年11月に岡倉、天城、相馬邦之助と共に妙義山に訪れている。